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ミャンマーから台湾へ、COM'Z康姆士が歌う現代華人離散の物語 / 從緬甸到台灣,「康姆士」歌里的現代華人離散往事 (後編)


ミャンマーから台湾へ、COM'Z康姆士が歌う現代華人離散の物語 (後編)

從緬甸到台灣,「康姆士」歌里的現代華人離散往事  (後編)



COM'Z 左から駿騰、永駐、世翔、小毛  / 康姆士樂隊,左起駿騰、永駐、世翔、小毛



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この文章はwechatアカウント:全現在(ID:quanxianzaiAPP) https://m.huxiu.com/article/391224.html の文章を転載しています。作者:王閃閃、写真は康姆士COM'Zオフィシャルより


本文來自微信公眾號:全現在(ID:quanxianzaiAPP)

作者:王閃閃,原文標題:《從緬甸出發,台灣音樂人永駐身上,是一頁現代華人的離散往事》,頭圖來源:康姆士COMZ


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宝くじに当たったみたいで、その宝くじこそ台湾だった

就像中了個樂透,而那個樂透就是台灣



母は永駐を中国語の学校に行かせたのは、将来台湾で勉強して欲しいという希望があったから。華人移民の下世代にとっては、ミャンマーを離れること以外道はなかった、というまともな選択肢もない中、ミャンマーでは1982年に新な公民法が決定され、1823年以前にミャンマーに定住していた民族のみが公民とされ、華人やインド、欧州からの移民やその下世代は2等公民となり、彼らは身分証を取得することすらできず、大学にも入れず、公職につくこともできなかったのだ。


媽媽把永駐送進中文學校,也是因為帶著讓兒子以後去台灣念書的期盼。對於華人移民後代而言,只有離開緬甸才有出路,這是沒有選擇之下的選擇——緬甸1982 年頒布新的公民法,規定只有在 1823 年前定居緬甸的民族,才可成為公民,其他如華人、印度、歐洲移民及後代則為二等公民。他們無法取得身份證,不得進入大學學習,不得擔任公職。



自由で発達した台湾、そこは多くの華人の末裔である若者を惹きつけた。趙德胤(Midi Z、映画監督)はかつて16歳の時に台湾に行ける試験に合格し、彼が語るに、自分はちょうどこのチャンスに恵まれただけで運が良かったのだと「宝くじに当たったみたいで、その宝くじこそ台湾だった」


自由、發達的台灣,是那時許多華裔青年的嚮往之地。趙德胤曾經於16歲時考試考到台灣,他說自己只是剛好得到這個機會,其中運氣多過自由意志:「就像是中了個樂透,而那個樂透就是台灣。」



1999年、永駐もその宝くじに当たったのだ。当時友人がたまたま2枚の試験の願書を買って、そのうち一枚は書き損じの為の予備だったのだが、「結果彼は一枚で書き終えて、お前も書くか?と聞いてきた。その願書は大金叩いて買ったのを見てたから、無駄にしないように自分も書いたのさ」テストの前日、永駐は夜中にカラオケに行っていたので翌日の昼は余りに眠く、テスト会場で配られた鶏肉ご飯を食べなかった。それが幸運なことに集団食中毒事件の被害から免れることとなり、普段なら3-400名の合格者が出るエリアがその年は7名しか台湾行きに合格せず、そのうちの1人が永駐だったのだ。


1999年,永駐也中了一次「樂透」。當時朋友恰好買了兩張聯考報名表,多買一張是因為防止填錯。「結果他填第一遍就對了,就說你要不要寫?我看都已經花那麼多錢買表了,不要浪費,我也來填一下吧。」聯考前一晚,永駐通宵去唱KTV,中午太困了,沒吃考場發的雞肉飯——於是無比幸運地成為了集體食物中毒事件的幸免者。往常一般能過3、400人的考區,那年只有七個人通過入台考試,其中就包括永駐。



永駐は進学する学校の名前すらわからないまま台湾に着いた。面倒な下準備は一切していなかった。通常ミャンマーからの学生はアルバイトをしながら学費を稼ぐため、台北を優先して選択するので、'高雄を選ぶのはバカ野郎だ'と言われていたのだが、彼こそそのバカ野郎だった。


永駐連學校名字都不知道就到了台灣,毫無準備帶來諸多麻煩:通常緬甸學生們需要打工賺取學費,都會優先選擇台北,「只有笨蛋才會選高雄」,他就是那個笨蛋。



何もかもはじめてな上に、春節休暇時期だったので宿舎にも入れず、キャッシュカードも忘れてきて、丸1週間飢えて過ごした。勇気を出して食堂の人に助けを求めた「チャーハンひとつ恵んでもらえませんか?」

異郷の民としての身分はついてまわり、マンダレーでは彼はミャンマー人にもなれず、台湾に来ても彼の発音は他の人々とは違っていた。将来ここで残ってどんな仕事ができるのか、全く見通しのない状況だった。'子供は自分のわかる範囲でしか物事を考えれない。ほとんど誰にも聞けないまま'


來乍到,他在放春假的時候進不了宿舍,忘記帶銀行卡,餓了整整一個星期,鼓起勇氣求小飯館老闆:「可不可以給我一份炒飯?」

「異鄉人」的身份揮之不去:在曼德勒,他不屬於緬甸人,而來到台灣,口音仍然和大家不同。至於未來是否能夠留下,要做什麼工作,也全然是一片模糊。「小孩子只能用自己的理解方式去理解,很多事情都來不及問。」



この時期、永駐の人生の規則はとてもシンプルで、他は気にせず学校での勉強にひたすら集中すべし。彼は高校、大学の英文科からデザイン科に至るまで8年間学び、卒業しないために自ら留年を選び、色んなアルバイトを経験した。先生が彼に高評価をつけたら「ダメです。私は卒業できてしまうと終わってしまうのです」なぜなら卒業してしまうと台湾の身分証を持たないミャンマー人は送り返されてしまうのだった。「私は学生の身分でないと台湾にいることはできず、帰ったとて何ができるかもわからなかった」


那些年,永駐的人生規劃很簡單:先別管其它,要把學校念到極限。他一共讀了8年高中,大學從英文系轉到設計系,為了不畢業主動掛科留級,做各種兼職。老師要給他高分,「不行,不要讓我過,過了我就完了」——因為一旦畢業,沒有台灣身份證的緬甸人就會被遣送回去,「我必須得用學生的身份才能待在台灣,我也不知道回去能幹嘛。」



彼は多くの奔放な行いをしてきており、話せばブラックユーモアな話ばかりだ。「当時台湾で1番低い点数で入れる大学があった。18点あれば入れるとのことで、私はそこに行ってみたくなって、学校の教務主任には私が頭がおかしくなったと思われたのだけれど、私は割と有名な学校からその学校に転入し、これはかつてないケースとなったようだ。行ってみたらやっぱりちょっと違って、この大学三年生で学んでることは私は高校一年生の時に学び終えたものなので、一ヶ月後にはまた別の学校に転出したのさ。」


他做過很多荒唐叛逆的事,講起來全都是黑色幽默。「那個時候台灣出了一個分數最低的大學,18分就可以上,我就是要去念一下感受一下。學校教務長都覺得我是神經病,我從一個很有名的學校,非要轉到他們這兒來的,從來沒有過這種狀況。我發現還是有差距的,這裡大學三年級在學的東西,我高中一年級就學完了,過了一個月我就轉走了。」



「1番ヤバかったのは、通って1週間がたったある日教官に呼び出されて、お前の親友に風呂に入れと伝えて欲しい、って言われたんだ。だけど私は来て一週間しか経ってないのに親友なんているわけない、食堂でもどこでも1人だったのだから。彼が言うには、いつもお前の隣にいるアイツはもう3ヶ月は風呂に入ってない、前学期から今までずっとだ。他の誰もアイツと話したがらないのでお前だけが頼りなんだ、と。それ、いつだってアイツの隣しか空いてる席がないだけだよ!」


「我記得最屌的是,我剛進去念了一個星期,有一天教官就把我叫過去,你可以跟你好朋友講一下,讓他去洗澡。我說我才進來一個星期,有什麼鬼好朋友,我連餐廳在哪都沒找到。他說坐你旁邊的男生已經三個多月沒洗澡了,從上個學期到現在都沒洗澡,別人都不跟這個男生講話,只有你跟他說話。我說他媽的全班就只有那一個空位置。」



COM'Z in taiwan / 康姆士在台湾



2014年台湾は条例を変更し、永駐はついに台湾の身分証を手にすることができた。しかしそれの代償としては渤海諸島まで行ってそこでつまらない兵役に就かないといけなくなったのだが。


直到2014年,台灣頒布相關條例。永駐終於拿到了一紙台灣身份證,儘管代價是必須要去澎湖,去服枯燥無聊的兵役。



永駐は正式に学校を卒業する事となった。彼はやはりラッキー、全てのミャンマー華人がこのような結果を得ることはできないからだ。彼は《一样/同じ》で自分に向けて、そして全ての環境が<同じではない>苦しんでいる友人に向けて曲を書いた。:「あの月まで飛んで行って隠れたい、暗い夜の悲しみ、お前を連れて逃げ出す櫂が見当たらない、まずは俺の胸の中に、この恐ろしい世界では、思いもよらない宝物には意を隠し、影のあるところには、必ず光が存在する」

《走》でも歌う:「終わりは必ず訪れる、それがうつくしくても、残酷なものであっても」


永駐可以光明正大地從學校畢業了,他仍然足夠幸運,不是所有緬甸華人都撐到了最後。他把《一樣》寫給自己,也寫過所有因為與環境「不一樣」而痛苦過的朋友:「我想要飛到那月亮去躲 / 黑夜的悲傷  / 我找不到帶你逃走的槳 / 先來我胸膛……在恐懼的地方 / 會藏著意想不到的寶藏  / 有陰影的地方  / 就一定有陽光。”

《走》裡唱着:“總會有一個盡頭 / 不管美好或残陋。”






「音楽があるから、死なずにすんだのかもしれない」

「還好我有音樂,不然早死了」



2017年のクリスマスの1週間前、永駐の母はマンダレーから高雄まで彼のライブを観に来た。彼は母に打ち明ける「中学生の時、母からもらったパソコン教室の学費でギターを習ってたんだ」母は笑いながら、「永駐は台湾に来てからギターを始めたと思ってたけど、そう考えると当時の投資もまぁうまくいったってことね」

永駐「まぁね、もし音楽だけ目指してたら生きていけなかったかもね。でも音楽があるから死なずにすんだのかも知れない」


2017年聖誕節前一周,永駐的母親從曼德勒飛到高雄看他表演。他跟老媽坦白:初中時,把她給自己拿去學電腦操作大師補習班的錢,用來學吉他了。母親笑著說,以為永駐是到台灣才學會吉他的,看來當時投資得還不錯。

駐說:「還好,如果靠音樂活著,我大概早死了。不過,還好我有音樂,不然我也早死了。」





永駐と母 / 永駐(中)與母親(左)



当時の音楽のきっかけとなったお金は使い道としてはなかなかなもので、マンダレーのギターの先生は手にしたお金で酒を飲みにいき、11、2歳の女の子を呼んで永駐にギターを教えさせた。黒板に6つのコードを書いて1時間教えたのだった。

永駐「私はみんなが知ってるメソッドで歌ってるとは限らず、歌いたいものだけ歌ってる」

その日彼は初めての曲を書いた。曲名は《思念》といって、当時密かに想いを寄せていた思思という女の子に向けたのだった。


當年那筆音樂啓蒙的錢,說起來花得有點坑。曼德勒的吉他老師拿了錢就去喝酒,叫來十一、二歲的小女兒教永駐,在黑板上畫了6個和弦,教了一個小時。

永駐想:「我不一定要照著你們的規則去唱,我可以隨便唱想唱的。」那一天他寫了自己第一首歌,歌名叫做《思念》——因為他暗戀的女孩叫思思。



2000年永駐は台湾高雄で1人ギターを弾き、いつかは自分のバンドを結成したいと考えていた「そしたらcom’zと名付けよう,Crazy In Music Zone、つまり音楽空間の中で狂ったように楽しむのさ」彼の音楽のもつイメージには、十分な美しさを携えていた。《幾乎是幻想》では「天国を作った。熱狂を歓声にするんだ」


2000年,永駐在台灣高雄獨自一人,彈著吉他,幻想有朝一日擁有屬於自己的樂隊,「要叫com’z,Crazy In Music Zone,在音樂空間里瘋狂。」他在音樂的想象之中,可以擁有一切奢侈的美好。正如《幾乎是幻想》里所唱:「我創了個天堂,用熱鬧去喚響。」





2015年兵役にも永駐はギターを持っていった。ある日の訓練で彼は舞台に立って《今天你要嫁给我》を《今天我要退伍》と替え歌にして歌った。兵営場所は澎湖で1番高い山の上にあり、ある夜永駐は窓から広場を照らす銀色の月の光を見た。まるで月から1番近いところにいるかのような幻想を見て、《跳上月球》を書いた。:「今夜の月を独り占めしてみる、握った拳と勇敢な雄叫びと」

兵役に就く前、com'zは他のメンバー全員が去る事になり、バンドの実態は無くなっていたが、永駐が澎湖に来てからのリバウンド的な創作の爆発があり、《你要如何,我们就如何》このアルバムのほとんどの曲を作り上げたのだった。


2015年,難熬的兵役,永駐也帶上了吉他。有一天大家在下面出操,他在演講台上,把《今天你要嫁給我》唱成《今天我要退伍》。

兵營位於澎湖最高的山頂上。某天深夜,永駐望向窗外,看到廣場鋪上了一層銀色的月光。他幻想自己是整個澎湖島距離月亮最近的人,寫出《跳上月球》:「我們看看專屬今夜的月球,握緊你的拳頭勇敢的怒吼。」

就在兵役之前,康姆士樂隊經歷過一輪人員的更迭,已經名存實亡。但永駐在澎湖迎來了一輪「觸底反彈」的創作爆發,寫出了《你要如何,我們就如何》同名專輯中的大部分歌。





次のハイライトとしては2018年、バンドの収入も伸びず、永駐は90年代生まれの小毛と駿騰の2名の若いメンバーの時間を無駄にしないよう、バンドを解散しようとすらしていた。福建のミュージシャンである世翔が加入し、ドラマーとマネージャー両方を担うことになってから、バンドはプロ化を目指して進み、番組《The Big Band》への出演前にはすでに中国でのファンを獲得していたのだった。


下一個節點是2018年,因為收入沒有起色,永駐還曾想要解散樂隊,不要耽誤兩位90後樂手小毛和駿騰。福建音樂人世翔加入擔任鼓手兼經紀人,使得樂隊得以正式職業化,在登上《樂夏》舞台之前已經贏得了一批內地歌迷。



永駐は中国語の巻き舌発音や前後の鼻音の区別もつかず、バラエティ番組ではいじられキャラではあるが、彼は確実に自分の人生をもってして自分の音楽を定義してきており、彼の感情をファンへ伝えたい:『誰しもが孤独な部分を抱えており、もし家がお金持ちであってもその人が欲しいものは家から与えられるものではない。みんなが追い求めるものはそれぞれ違うけれど、失望した時の気持ちは同じ。そして、失望を味わってこそ本当の楽しさを理解できるのだろう』


下一個節點是2018年,因為收入沒有起色,永駐還曾想要解散樂隊,不要耽誤兩位90後樂手小毛和駿騰。福建音樂人世翔加入擔任鼓手兼經紀人,使得樂隊得以正式職業化,在登上《樂夏》舞台之前已經贏得了一批內地歌迷。

永駐分不清卷翹舌、前後鼻音,在綜藝里留下了「人參導師」的梗。他的確願意用人生來定義自己的音樂,想要傳遞給歌迷們一些他的感受:「每個人都有自己孤單的部分,可能你們家很有錢,但是你想要的東西也不是家裡能給到的。大家追求的東西不一樣,但失望的心情卻是一樣的。對,而且你一定要嘗過失望之後,才會懂所謂的快樂。」



「そして、我々はみんな温かな方へと向かおうとするので、皆んなで一緒に向かい、一緒に楽しい時を過ごす。そして一緒に終わりを迎えたあと、別れや辛いこともあるだろう。それこそが人生なのである。」


駐想要講一個完整的故事:追隨、得到、擁有、看清、告別。「我們人都會想要朝更溫暖的地方走。大家一起走,一起狂歡,一起結束完之後,也會告別,也會難過,這就是人生常態。」


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COM'Z / 康姆士 Live in Tokyo

2024年1月25日
Shibuya WWWX

open18:30 / start19:30

adv.6500 (include 1drinkfee) door.7000 (include 1drinkfee)

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